ほろほろ日記

こぼれ落ちる思い出を繋ぎ止めるメモ

誰かを助けたいと思う気持ちと行動の矛盾について考えた結果、こうすることにした。

子供を連れて家に帰る途中、バスから降りると駅前で「国境なき医師団」のブースが目に入った。

 

あ〜、寄付だな、って思って通りすぎようとしたら、スタッフの人に「これ、どうぞ、見てみてください!」って差し出された小さい紙パックのようなものが目に止まった。

こういうの見せられたら「なんですか?これ?」って聞かずにはいられない。

 

www.msf.or.jp

 

その小さな紙パック。

上の国境なき医師団のサイトでも紹介されている、「母親の手で子供が回復する、500キロカロリーの栄養治療食RUTF」というものだった。

 

https://static1.squarespace.com/static/516db823e4b003135d54c10c/t/51eb0195e4b02a3783859328/1374355862969/RUTF.jpg?format=1000w

 

ガリガリの赤ちゃんのパネル写真があって、うちの娘に「この子、何歳だと思う?」って聞くお兄さん。

だんまりの娘。

「5歳なんだよ」

って話しかける。

 

世界では「5秒に一人」、子供達が命を失っているという現実の中、重度の栄養失調の子供でも、この栄養食さえ食べることができれば数ヶ月でかなり回復できるとのこと。

 

「一袋、だいたいいくらだと思いますか?」

「う〜ん、50円くらい?」

「前は50円だったんですが、今は30円になりました」

 

国境なき医師団は、国や政府から一切お金をもらっていない民間団体なので、活動のために寄付という形で皆様からのご協力をお願いしています。政府からの支援を受けてない代わりに、どこででも活動できています。1日60円、一ヶ月で2000円、ずっとではなくても期間を決めてのご支援も可能です」

 

とのこと。

 

国境なき医師団はじめ、こういう人道的な支援をしてくれる団体の方たちがいるってことは世界で紛争や飢餓に苦しむ人々にとってかけがえのない希望の一つになっていると思う。彼らは命がけで現地に行き、人々を助けようとしている。米軍による病院の誤爆で患者とスタッフに多くの犠牲が出たことは記憶に新しい。その後、国連安全保障理事会でのMSF会長の力強いスピーチがあった。

「病院を撃つな」

www.msf.or.jp

 

 

 目の前にお腹を空かせて食べるものもない子供がいたら、持っているお金をはたいてでも何か食べさせようとするだろう。毎日だって、その子がお腹を満たせるなら自分の昼ごはん抜いたって全然構わないと思う。

でも、何で、目の前にいる子でなかったら、なかなかそういうことができないんだろう。1日60円で子供一人が助かるっていうのに、なぜ踏ん切りがつかないんだろう。

 

一つは、寄付という形の支援方法への猜疑心。

本当にこのお金は必要な人たちのために使われてる?

っていうのが、あるんだと思う。

ただ、あちらもそれは承知しているので、三ヶ月に一度のペースで支援者にレポートを送っているという。

彼らの活動は各国のメディアでも取り上げられているし、彼らが資金を悪用するとは私には思えない。

 

それならなぜ心よくすぐにでもサインしない?

 

1日60円、一ヶ月で2000円、年間にしたら24000円か・・・

え、24000円って結構な額になるなぁ、、、とか。

 

でも、目の前にそういう子がいたら絶対それくらいなんとも思わないよね、とか。

この矛盾って何?

偽善?

とか色々考えた。

 

世界平和とか、人道的な貢献活動についてとか、大人になって自分なりに思うところは出てきたけど、こういう現実について子供たちにちゃんと伝えて、話し合うことって大事なんだろうと思う。日本の学校ではまず先生たちがこういう問題に興味がない方が多いので、家庭でできるといい。

 

アレッポに住む7歳の少女のツイートからは、戦時を生きる彼女の日常が垣間見られる。

 

愛らしい笑顔の少女が本を読んでいる写真のツイートは

アレッポからこんにちは。戦争を忘れるために本を読んでいます。」

twitter.com

 

「ご協力いただけませんか」

 

う〜ん、、、、協力したいのは山々だけど、、、どうしよう。。。最近ちょっとお金も少ないしなぁ、、とか。

 

クレジットカード、暗証番号を何回か間違えちゃったせいで、再発行手続きしてくれって手紙が来たので、今は手元にあるのは旦那名義のカードのみ。

旦那に相談なしでこういうの決めるのもなぁ。。。って正直に話したら「それは難しいですよね」って、すんなり言ってくれたスタッフのお兄さん。

最後に、子供に「長い話、聞いてくれてありがとうね!」と笑顔で語りかけるお兄さん。

私にも

 

「真剣に話を聞いてくださってありがとうございました!嬉しかったです!今日けっこう寒いですし、こういう時ってなかなか皆さん足を止めてくださらないんです」

 

 

またいろんな意味で胸が痛んだ。 

 

アメリカ住んでた時、モールで買い物してたら今日と同じように国境なき医師団のスタッフの人たちが寄付集めをしていた。同じような説明を受けた記憶があるんだけど、印象からして今日のお兄さん達の方が苦戦してそうだった。

アメリカだったら、一定数は絶対こういうのに協力する人たちがいるんじゃないかと思う。または、足を止めて説明を聞く人たちも。実際、当時はうちの旦那が月々の支援という形でサインした。

 

でも、日本って、足早に過ぎ去る人が多いだろうな、っていうのもなんとなくわかる気がした。ただお兄さん達、場所は駅前ではない方がいいかも。せっかくすごく意義のある活動してくれてるんだから、人数はいても、人々が最も早足で移動する場所の一つが駅だ。その場でチャリンと募金箱に小銭を入れていく形のものならいいかもしれないけど、こういう活動の意味と意義をわかって支援という形につなげるには、駅はあまりにも時間の流れが早い。

 

それに、私たちはあまりにも他の国の人たちのことに無関心すぎるとこがある。

 

トランプが大統領に選ばれた時のFBのタイムラインが面白いくらいに日本人と日本人以外でくっきり分かれていた。

 

外国人の友人は普段あまり投稿しない人までもが何かしらの形で反応していた。(その多くは嘆きであったけれど。)対する日本人の友人たちの投稿は、面白いくらいに「通常運転」だったこと。あれ食べた、ここに行った、こんなお菓子作った、的な。

 

プロフィールを真っ黒の写真に変えたアメリカの友人の投稿の後に、何事も起きてないような超平和な投稿を眺める不思議。

 

同じ世界に生きてても、こんなに違うんだなってのがよくよくわかる光景だった。

 

 

私には紛争地に行って助けを必要としている人たちに直接支援をすることはできない。なら、できることをするしかないんじゃないか。

 

このブログは旦那もちょこちょこ読んでいる。

心優しい人道的な彼はおそらくまた支援を始めてくれるだろう。

もしくは、「駅でまた見かけたら俺のカードでサインしてくれていいよ!」って言ってくれるに違いない。

 

安定した収入のない私にできることは、まず旦那の背中を押すことだ。

 

各々が、できる範囲でできることから。

こういう貢献の仕方があったっていいと思うんだよ。