ほろほろ日記

こぼれ落ちる思い出を繋ぎ止めるメモ

うちの子の場合〜吃音と音声チック〜

 
 
うちの長女にはじめて吃音症状が出たのは3才を過ぎたくらいのとき。
はじめは、「あ、あ、あのね・・・」「り、り、り、りさ」のように連発だったのが、次第に言葉がつかえて出てこなくなり、いわゆるブロック症状まで進行した。何が一番言いにくかったかといえば、まず「りさ(自分の名前)」それと「パパ」「ママ」。出だしの「あ、あ、あ、あ、あの〜」とかいうのも多かったかな。
 
最初こそそれほど気にしなかったけれど、どんどんひどくなっていって、ブロックの状態になったときはもうどうしたらいいのか本当にわからなかった。顔の筋肉をめいっぱいひきつらせて何かを言おうとしてるんだけど、どうしても言葉にならない。
あるとき、通っていた幼児教室の先生に相談してみた。すると、開口一番指摘されたこと。
 
 
「ストレスちゃう?」
 
 
この言葉は言い換えれば「お母さんが悪いんちゃう?」って言われてるのと同じようなものに感じる。
多くの本には、吃音の原因はまだはっきりしていないと書いてあるし、親が不必要に自分を責める必要はないのだと思う。でも、この言葉は重く心にのしかかる。
 
それから、よく言われた「心配しなくても、すぐよくなるよ」っていう慰め(コメント)も、いまいちピンとこなかった。この言葉から感じるのは、「吃音」というものに対する理解のなさと無責任さだけだった。明らかな温度差が、そこにはある。
子どもの吃音が消えるか続くかなんて、誰もそんなことわからない(吃音を発症するこどもの多くは自然治癒すると言われてるけれど、自分の子どもがそこに入るかどうかなんてわからないのだから)。将来、吃音で子どもがどんな問題に直面する可能性があり、それが彼女の人生にどれだけの影響を与えるか、あらゆる可能性が頭をよぎり、それがいっそう私を不安にさせていた。だけど問題なのは、「今」どんな問題が起きていて、わたしたちはそれとどう向き合っていけばいいのかということ。

 

 
このときは、吃音に関するいくつかの良書が大きな助けになった。私が読んだ中で一番わかりやすく、内容もよかったのは以下の三冊。
 
この本は、吃音についての基本的な知識だけでなく、当時私が常に「吃音」というフィルターを通して娘を見るようになっていたことに気がつかせてくれたという意味でもとてもよかった。
 
吃音というのは不思議なもので、本当に調子のいいときと悪いときが波のようにやってきて、それを繰り返す。そのたびに一喜一憂というのは、同じ経験をされた方ならよくわかってもらえると思う。でも、こうなると「吃音」というのが子どもと接するときに常に頭にはりついてて、「吃音のリサ」という目で彼女のすべてをとらえるようになってしまっていたように思う。だけど、実際には吃音というのは彼女の全人格ではなく、「りさ」という人間を構成している要素の一つに過ぎない。
大事なことは、りさが「どう話したか」ではなく、「何を話したか」「何を伝えようとしていたか」ということ。この本を読んで何か自分の中で、少しだけど娘の「吃音」というものとの付き合い方に一本の筋が持てた気がする。
 
あと、「吃音ドクター」による吃音支援の入門書、「エビデンスに基づいた吃音支援入門」。こちらは学校の先生にもぜひ読んでいただきたい一冊。

3冊目は、これは医学書ではないけれど、ぜひ一人でも多くの人に読んでもらいたい本にきよしこ (新潮文庫)がある。

著者である重松清も吃音症で苦しんだ人の一人だ。物語の冒頭で、作者は吃音の小学生の息子を持つある母親から「息子を励ましてほしい」という主旨の手紙を受け取る。彼は返事を書かなかった。代わりに、一人の少年についての「お話」を書いた。それがこの「きよしこ」である。
 
吃音というものを全く知らない人、また、自身、もしくは家族が吃音症の人、どの人が読んでも十分にそれぞれが何か感じるものを得ることができる小説だと思う。
 
いい本に出会うこと、ちゃんとした情報を得ることって、本当に大事。ネットの情報も助けになることが確かに多いけど、情報量、そして質としては本にはかなわない気がする。
 

 

ただ、その反面、本やネットに書いてあることがすべてとも限らないとも思う。同じ吃音といえど、子どもの性格や、まわりの環境、吃音の出方、確かにある程度の「傾向」というのはあるのかもしれないけど、確実に「個人差」も存在する。「子どもがどもっても、それを指摘するようなことは厳禁」というのはよく見かけるフレーズだけれど、子どもがブロック症状になり、顔を真っ赤にして何かを言おうとしているのだけど、言葉が出ない、これをただ黙って見つめるしかない?気がつかないふりをするほうがいい?
 
 
「言いにくいね、言葉むずかしいね・・・」
 
 
 
思わず口をついて出た。
 
 
娘は「うん・・・むずかしい」とだけ返してきた。
 
 
このような声かけがいいのか、悪いのかなんて私には正直なところ判断がつかなかった。おそらく子どもの置かれた環境だったり性格だったり、吃音の状態だったりでその是非も変わってくる可能性が高い。でも、目の前で苦しんでいる子どもに対して、その苦しみを「気がつかないふり」することはできなかった。
あなたが苦しんでるのをママはわかってるよ、ってせめて伝えたかったんだ。
 
結局、うちの娘の吃音は半年ばかり続いたのちに、すーっと消えていった。この間、ちょっと環境を変えてみようと、ひと月ほどうちの実家に帰ってゆっくりしてたってこともあったけど、これが吃音の消失につながったとは私は個人的には思ってない。たまたま、そういう時期に実家に帰ってただけって気がする。

 

そして、娘の吃音が消えて、またいつもと変わらぬ日々がはじまった。そののち、夫のアメリカ赴任が決まり、子どもたちも現地の学校へ行くことになった。
アメリカ生活も落ち着いた頃のある日、夫が長女の言葉についてあることに気がついた。
 
 
「なんで、りさ同じ言葉を二回繰り返してるの?」
 
 
私は気がついてなかったけど、よく注意して聞くと、確かに同じことを二回繰り返している。
「今日あつかった」と言ったあとに小声で(ささやくような感じで)「今日あつかった」と同じ言葉を繰り返す。
 
明らかに何かがおかしいと思った。
ふざけているわけでもない、どちらかというと無意識に言ってるように聞こえる。
でも、以前の吃音とは違うようだ。
 
とりあえずネットで調べてみたら、数少ない情報の中でこれじゃないかと思うものが見つかった。

 

 
「複雑性音声チック」
 
 
 
チックといえば、まばたきや体の一部の反射的な動きを思い浮かべることが多いが、これは運動性チックであり、うちの子の場合は音声チック。
音声チックにも単純性と複雑性があり、前者は「咳払い」や「鼻ならし」などがよくあげられており、後者はいわゆる「汚言症(卑猥な言葉や反社会的な言葉を言ってしまう)」や「反響言語(人が言ったことを繰り返す)」などに代表されるよう。そして、「自分のことばを小声で繰り返す」というのもどうやらこの一種のようだ。
 
今度はチック・・・
 
吃音ではないけれど、「言葉」の問題としては共通してる。異国での生活が彼女にストレスを与えたのか、はたまた私のせいか、いろんなことを考えた。
でも、吃音のときのことがあったから、ある意味対処の仕方としては迷う必要はなかった。
病院にかかるタイミングを日常生活への支障の有無でとらえるなら、今のところその必要はなさそうだ。
 
こういった吃音やチックの原因がなかなか特定されないのは、これらが一つの大きな原因ではなく、個々の性格、器質的、環境的な複数の要素が複雑にからみあって出てくる症状だからなのかもしれない。
 

 

それにしても、このタイプのチック症の情報の少ないこと。本人はこのチックにどの程度気がついているんだろう。
 
うちの子の場合、このチック症がではじめてもう一年たった。もはや一過性ではなく慢性的なものになってしまっているように思う。
そして今回もまた吃音同様、波がある。
 

 

以前、大学で日本語教師をしている友人に尋ねてみたことがある。
「(外国人)学生の中に吃音の人とかいる?」って。すると、
「いるよ〜。教科書の文を読むときとかやっぱりどもっちゃうけど、でも、本人は一生懸命やってるからまわりも何も言わないでみんな静かに待ってるよ」って言ってた。
うちの子のチックも、日本語でも英語でも出てるから、外国語になったら何かが変わるというわけでもないのだろう。それでも、その留学生の「学ぶ姿勢」は見習いたいと思った。少なくともその学生さんにとって「吃音」というものが「日本語(外国語)」を学ぶということを妨げる要素にはならなかったという事実は私にとってもとても大きかった。

 

うちの子の吃音がこれからまた出てこない保証もないし、チックはこれからずっと続いていくかもしれない。
 
でも、どちらにしても、娘がこれから勉強したいことを勉強して、彼女らしく生きていってくれるのが一番だなと思う。
 
 
 
もし将来、娘がこの音声チックで悩んだときには私は真顔でこう言って励ましたい。
 
 
 
「大事なことなことなので(時々)二度言います。」
 って言ったらいいんだよ、と。
 
 
 
どんなことでも、その中に「笑い」の要素を見つけることで乗り越えられることっていうのは、少なからずあると思うのです。