ほろほろ日記

こぼれ落ちる思い出を繋ぎ止めるメモ

アメリカのデモに参加してみた

*書きかけて止まってた記事を今書き上げたので、昨日=先週のことです。最近、思ったこととか感じたことを書き留めておきたいと思いつつ、ブログに書くのもなんだかまとまらなくて放置ぎみだったけど、がんばって書いとくぞー!自分メモなのでまとまってません。

 

 

昨日の朝、ニュースにとびこんできた速報を見て言葉を失う。

 

Supreme court overturns Roe v. Wade.

Roe v. Radeと呼ばれるのは、1973年に最高裁が認めた人口妊娠中絶を憲法上の権利として認めた歴史的な判決。

これが覆された。

先月、最高裁内部からこの判決のための草案がリークした時もメディアは大騒ぎになった。

民主党がその内容を大批判する一方、判事含め共和党は裁判所の内部にいるであろうこの文章をもらした”犯人”を見つけ出すことに躍起。

でも、いつも思うのだけど、この国では何かが起きるとニュースでまさに一日中そのことについて議論している。多くの専門家や活動家を呼んできてインタビューしたり、当事者たちの声を聞いたり、じっくり聞いていると番組としてもとても面白い。(少なくとも日本の情報番組よりは聞き応えのある討論が多い)

でも、一ヶ月前に話題になってたことは何だったかな、と思い出せなくなる。

情報が飽和して、意見の対立する人たちが議論をしていてもその議論はどこまでいっても平行線で、そこに妥協点を見いだそうとする姿勢はない。

そして、きっと二ヶ月後にはこの報道量は半分以下になり、来年、二年後には、もしかしたら今の状況が徐々に「普通」になっていってしまうのかもしれない。

今まで持っていた権利をなくした瞬間というのは、「奪われた」感覚がとても強くても、それが年を重ねるごとに「なくてあたりまえ」になっていってしまうんじゃないだろうか。

 

人々がまさに血と汗と涙を流して勝ち取った権利も、それはあって当たり前だと思って政治に無関心でいるといつのまにかそれが奪われてしまうということが、まさにそういうことがアメリカでは起き始めてるのかな、と娘と話した。

 

中絶が違法だった時代のアメリカで、女性たちの中絶を支援した団体についてのドキュメンタリー "JANE: An Abortion Service" はとても衝撃的だった。当時、匿名のジェーンという名で活動していた団体は、街の電話ボックスや、そいういった女性が見つけやすそうな場所に電話番号と短いメモ「妊娠?ジェーンに電話して」というチラシを貼っていたのだけど、その真摯な活動は口コミでひろがり、摘発されるまでの1969年から1973年(この同じ年に憲法で中絶の権利が認められたために、逮捕されていたメンバーは長い刑期を刑務所で過ごさずに済んだ)までの間に11,000人もの女性が中絶するのを支援(カウンセリング含め)した。

このドキュメンタリーでは、当時の女性たち(多くは有色人種で低所得の人)が、妊娠がわかった後に何とか自分で流産しようと熱い風呂につかったり高いところから飛び降りるなど自分で自分の体を痛めつける行為をしていたという説明があった。中絶が認められる日本でも、きっと誰にも言えずに妊娠を自分で終わらせようとする人は同じことをするんじゃないだろうか・・・。

さらには法外な値段でずさんな処置をする闇業者が現れたり、窮地に立たされた女性の足元をみるような商売をする人が出てくるかもしれない。

 

女性の体について決定権を持っているのがなぜ本人ではなく国なのか。

アメリカ国民の6割以上が中絶の権利の維持に賛成している中、最高裁判所の判事の9人(うち男性が6人を占める)が女性の体についてあぁしろこうしろと決めるのは本当に意味がわからない。

トランプ政権時代に最高裁の判事が三人も指名されてしまったというのが致命的。

 

 

そんな中、判決を受けてさっそく今日は近所でもデモがあるというので、娘と一緒に参加してみようという話になった。

抗議運動、テレビではよく見かけるけど、実際はどういうことが起きてるんだろう。

 

17時開始で私たちがついたころにはかなり人が集まってた。

広い公園の一部に人だかりができている。

プラカードを持った人がたくさん。

みんな一方向を向いていて、私たちから見えたのは参加者たちの背中。

 

何をやってるんだろうと思ったら、公園に面した車道に向かってなにやら叫んだりチャンツを繰り返したりしている。

 

よく見ると、通りがかる車の人たちに向けてプラカードを見せたり訴えたりしている。

それで、次の瞬間

「ブーーーーーー!」

っと超でかいクラクションを鳴らして走ってく車。

「邪魔だ」って言われてんのかなとびびったのだけど、デモ参加者からはなぜか「ヒュー!」という喜びの声。

 

よく見てみると、デモ参加者たちの前を通る車の中にはスピードをゆるめて窓からガッツポーズするドライバーがいたり、クラクションを「ピッピッピピッピー!」と小刻みに鳴らしたり、派手に一髪鳴らしたり、デモ参加者に応える形で何かしらの合図を送っていた。(そういえば、10年くらい前にノースカロライナ州にいたときは車に乗ってる時に沿道に並んで同じようにプラカードを掲げて立つ人々を見た。しかもその時に見たプラカードには「中絶反対」の言葉が並んでた)

郵便局やフェデックス、アマゾンのでっかい車両からの応答には一際でかい歓声があがってた。

 

そんな中、ある瞬間、場の空気が一転した。

一台のピックアップトラックが通りがかったとき、それまでのクラクションの軽やかな音ではなく、デモの前を通るときにエンジンを一気にふかして「ブオオオオオーン!!」(擬音語の幅が狭くてすみません)通って行った。

そのあとにものすごいブーイングが起きた。

ある女性は「ファッ○ユー!!」とその車に向かって叫んだ。

 

あぁ、あのトラックの人は、この抗議に対して抗議の意を表したんだね、と娘と確認。

 

でも、この形の抗議運動って、裁判所の判決に対して抗議する、納得していない国民はこんなにいる、この判決に影響される女性たちにあなたは一人じゃないというメッセージを送れる、いろんな意味があると思う一方で、このやり方では分断が進むだけなんじゃないかとも感じた。

 

どんな人たちが集まってるのかなと見てみると、一番多かったのは白人の女性たち。その傍らにはパートナーとおぼしき男性たちもいて、一際大きな声で女性の権利を訴えていたのが印象的だった。

中には小さい子ども連れの人や妊婦さんなんかもいた。

デモの中盤では、デモを率いていた人物が参加者に向かってスピーチをはじめた。彼女は自分のスピーチが終わると参加者の中から声をあげてくれる人を集って、数人がこれに続いた。

スピーチをした人々は数人だったけれど、人種も年代も多様だった。それぞれの背景や物語をその場にいる人たちと共有すること。

そこでスピーチがされていることを知らない道路の車の人たちから賛同のクラクションが鳴りまくっててそれにいちいちデモ参加者も応えるものだから、私の乏しいリスニング力ではスピーチがちゃんと聞き取れなかったのがちょっと残念だった。

 

参加者がどういう思いでそこにいるのか、集まった人が50人いたならきっとそこには50通りの思いがあるわけで、それに耳を傾けるというのは大事な気がした。

 


飼い主に連れられてやってきた犬たちも暑い中お仕事をがんばっていた。

首に下げるのは[get neutered:去勢]の文字。

でも、犬や猫たちは彼らの意志に関係なく人間によって人間の都合で去勢されてるわけで、それこそpro-choice / pro-lifeどころではない。

彼らがもし人の言葉を話すなら何を語るんだろう。

 

いずれにせよ、「人間ってのは勝手だな」って思うんじゃないだろうか。