ほろほろ日記

こぼれ落ちる思い出を繋ぎ止めるメモ

今日の英会話クラスで思ったこと

今日は近所の図書館がやってるESLクラスに参加してみました。

zoomを使用しての開催なので、30名ほどの参加者はアメリカのいろんな州から参加していました。(でもやっぱりこの近郊の人たちが多かった)

ブレイクアウトルームに分かれる前に、全体で一人一人簡単な自己紹介がありました。名前と出身国といま住んでいるところを言うだけでしたが、その中で、ロシア出身の方とウクライナ出身の方が数名いました。

 

最近こちらに来たというウクライナの方たちの表情に笑顔はなく、一人の方は短い自己紹介をしてすぐにカメラをオフにされていました。

 

国と国が戦争をしていても、アメリカのような第三国ではウクライナとロシアの人たちが一つの図書館が主催する英会話クラスに一緒に参加しているという現実をどう捉えていいのか複雑な気持ちになりました。

そこにいる人たちは誰も何も悪くない。国と国との関係を超えて人は関わりあうことができると信じてはいるものの、現在進行中でウクライナで起きていることを考えると、あの場にあった何とも言えないような、一瞬張り詰めたような空気を感じとったのは私だけではないのではないかと思いました。

 

誰も何もそのことについて触れなかったけれど、あの場にいた多くの人はきっと色々と思うことがあったんじゃないだろうか。

 

子供たちの学校の初日に先生が「最近、ウクライナからも転校生が来てるのよ」と教えてくれた時の先生の表情は、私たちがウクライナについて何かを話す時にするあの表情と同じ。

最近は誰かがウクライナについて話をするときに、みな同じ表情をしているように見える。

 

でも、ロシアの人たちがそこにいるとき、私たちはその表情にブレーキをかけるんじゃないだろうか。

ウクライナから来ました」って参加者が言った時、「ようこそ!」って笑顔を作って他の人たちと同じように迎える先生の心中はきっと見かけほど穏やかではなかったはず。

 

ブレイクアウトルームでの会話の途中、好きな映画の話になりました。

「コメディやホラー、色々あるけどみなさんはどんなジャンルの映画が好き?」

 

私のグループにはロシアの出身の方が二人いらっしゃったのだけど、そのうちの一人が、

 

「私はcatastrophicな映画が好きなの。タイタニックとか、地震ものとかね。」

 

とおっしゃった。

多分、catastrophicを悲劇的な、とかってニュアンスで使ったんだろうけど、oxford dictionaryによる定義は以下のようなもの。

 

 

causing sudden and very great harm or destruction:

突然、非常に大きい危害や破壊をもたらすこと

 

 

その”catastorophic”という言葉の響きがなんとも恐ろしく感じたのだけど、同じグループにウクライナの人がいなくてよかったと心底思った。

誰が何の事件や災害、戦争の当事者かは誰にもわからないのは仕方ない。

でも、「もしかしたら」を考えることで避けられる衝突や「傷つき」もあるように思う。

会話ってコンテキストや相手によっては誰かをすごく嫌な気持ちにしたり傷つけたりするものだけど、なんか、非常に微妙な気持ちになったのは私だけだろうか。

 

クラスの最後に、先生が参加者に確認していたことがあった。

「今度、みなさんがなぜここに来たのか、みなさんが持つストーリーをぜひ聞きたいのだけれど、それについて話すことは嫌じゃない?」って。

 

あえてそこを持ってくるところがアメリカっぽいなと思った。

 

30人の参加者の背景には30通りの人生があるわけで、当たり前だけど、すごいことだなと思う。その一つ一つのストーリーをほんの僅かだとしても聞くことができる機会があるとすれば、それってすごく貴重だと思う。

 

こういう時代だからこそ、他人の人生のある側面に触れる経験は、世界の見方を押し広げてくれるはず。