(ネタバレあります。)
先日、二ノ国を見てきた。
朝一の回だったため、お客さんは数えるほどしかいない。
しかし、人気の場所は被っているため、だだっ広い館内に固まって座る観客たち。
こんな空いてるのに、
こんな空いてるのに、
隣のカップルの女子がポップコーンをパリパリ、袋をガサガサ、ジュースをジュージュー音、賑やかに食べまくり、時々彼氏に何やら耳打ちしている声が聞こえる距離感の無念さ。
ちょっと端っこでいいから、次回からは周りに人いなそうな席を選ぼう。
本題
二ノ国、一言で言えばとても面白かった。
前知識はゼロだったけど、いい意味で情報量が多く、何回か見返したいと思う作品だった。戦いの場面は迫力満点。
ラストはハッピーな感じはするものの、どこか腑に落ちないところも随所にある。
最初から感じていた違和感としては、ユウとハルのコトナをめぐるあからさまなアンバランスな力の関係性。
二ノ国での自分たちの存在を「夢だ」と決めつけ、早く目が覚めてほしいと言うハルのその傲慢さが私にはなんだかモヤモヤした。
コトナが何者かに襲われた際には、ハルは自らのことは棚に上げて現場で倒れるユウを睨みつけ「何やってんだよ」と、ユウの必死の制止も聞かずに重傷のコトナをあろうことかお姫様抱っこで担いで病院に運ぼうとすると言う無謀さ。
(正直、純粋な無鉄砲というより、実際こんなことしたら大問題だろう。)
二ノ国では、ユウとハルの力関係は逆転する。
二ノ国では、ハルにはない能力をユウは持っていた。
一の国でのユウは、なんで車椅子が必要だったんだろう。
本当の「強さ」って何なんだろう。
ある人にとっての正義は、ある人にとっては脅威になりうる。
こっちをとれば、あっちが犠牲になる。
こういうことって、日常の中でいろんなところにある。
ただ、一方が「正義」や「愛」を声高に叫べば叫ぶほど、そこには表裏一体の偽善と危うさがあるように感じる。
もう一度じっくり鑑賞してみたい、そんな作品。
音楽は安定の久石譲。素晴らしかった。
ところで、この映画をみた翌々日、娘が学校から持って帰ったホウセンカにでっかい幼虫が(しかも二匹)いるのを発見。
もしかして、クロアゲハとかかな〜!
と思い、ネットで色々探すこと数分。
これ、蝶々じゃない。
蛾の幼虫・・・。
ここで大問題。
この幼虫たちはすごい大食漢で、このままのペースでいけば娘のホウセンカの葉が食い荒らされるのも時間の問題(すでにかなりの葉を食われてる上に、でっかい💩するからプランターの周りがすごく汚くなる)。
でも、かといって、幼虫を駆除するのか。
できない。
同じ命だ。
あっちをとれば、こっちがダメになる。
まさに「二ノ国葛藤」と呼ばれる状況。(だと勝手に思った)
そこで、娘が「ホウセンカ、幼虫にあげる」という。
アーシャ姫が自らの胸に短剣を向けてコトナを救うようユウにせまる自己犠牲の場面を思い出した。
私は「ホウセンカ」も「幼虫」もどっちの命も救いたい。
とりあえず、ホウセンカには種が付いているので、娘がそれを回収してまた来年それを植えれば命は繋がるか。
そもそも、このホウセンカは一週間の実家への帰省から戻った直後には驚くほど萎れて茎もバッタリ倒れていたのが、水をたっぷりあげたら一晩にして脅威的な復活を遂げたという力強い生命力を持つホウセンカ。
まさにレジリエンス。
幼虫の大きさからして、おそらく近いうちに蛹になるのではと思う。
とにかく、自然の摂理に任せて、しばらく様子をみてみようと思う。
スズメガの幼虫も成虫も、虫は結構平気な方の私もちょっと気合いが必要。
イメージ検索でいろんな種類のものを眺めて慣れるよう試みる。
これも一種のイメトレだ。
思うのだけれど、世の中で自分が「怖い」と思うもののほとんどは「見慣れていない」ことが原因だと思う。
慣れればむしろ愛着すら湧くに違いない。
スズメガを検索すると、その幼虫から成虫まで強者達が嬉しそうに(顔は出していないが文面から想像)手に乗せている写真が山ほど出てきた。
よく見たら、可愛い顔している(のかもしれない)。
今年の夏休み、最後の思い出。