ほろほろ日記

こぼれ落ちる思い出を繋ぎ止めるメモ

傷を比べるということについて(なぜ人は不幸合戦を繰り広げるのか)

誰でも、自分に何かしらの不幸や不運があると、その運命というものを多かれ少なかれ嘆くものだ。そして、自分でそれを嘆くだけでは物足りなく、ご丁寧に他人のそれと比べて「自分のほうが不幸だ」と思うことで、自分を慰めようとする。

でも、実際自分が他人より不幸だと思うことが慰めになるのか。
余計惨めになることはあっても、それで心の平穏を得るということはないだろう。

それなのに、なぜ人は不幸合戦を繰り広げるのか。

例えばこんなケース。
うちの父は事故である日突然亡くなったけど、うちの叔母の旦那さんは病気で長い闘病生活の末に亡くなった。それで、うちの母と叔母がよくお互いに言い合っていること。

「あんたの(旦那の亡くなり方の)ほうがまだいい」
(一般的には病死と事故死では、事故で突然家族を亡くした場合のほうが遺族の立ち直りの時間がより多くかかるということは言われているけれど、こういう事実を持ち出したところで何の解決にもならないのがこういう論争の常)

この不毛な論戦に勝った(と両者互いに思い込んだ)ところで、メリットは何一つないのだけれど。

そして子どもを亡くしたある人もまた母にこう言い放つ。
「子どもを亡くすことほど辛いことはない。これは旦那を亡くすより辛い。」と。
(因みにこのかたのご主人はまだ健在)

私も子を持つ親として、子どもを亡くした親御さんはどれほど辛い思いをされてきただろうと想像しただけでも胸が痛む。

ただ、こういう「悲しみ」っていうのは比べるものではないとも思う。

更に、自分の「悲しみ」のほうがあなたのより遥かに「深い」のだ、なんていうことは決して他の人に言うべきではないんじゃないか。

私は体にいくつかケロイド状の目立つ傷があるのだけど、そのうち鎖骨の近くにあるものはやはり人目につきやすい。ずーっと気にしてて、こういうのができやすい自分の体をコンプレックスに思ったり、悲しんでみたり、いろいろしたけど、どうしようもならないのでしょうがない。ほんの数年前まではなかった傷なんだけど、進行性なのでどうしても大きくなる。加えて、バセドウ病の手術の際の傷までしっかり残っている。
そんなこんなで、夏場なんか特に傷一つないきれいな肌の女性を見ると、「あ~、いいなぁ~きれいだな~」って羨ましく思うことは多い。まぁ、かといってスカーフ毎回まいたり、傷までしっかり隠れる服選んだりしても、こすれたら痛がゆいし、面倒なので特に隠したりはしてないんだけど。

あまり日本人の友人とはこういう話はしたことないけど、外国人の友人とたまたま「傷」の話になったときに「ここの傷すごく嫌なんだよね」って話したら、「私にもあるのよ。昔大手術したときの大きな傷がお腹にあるわ。あなたのはまだ小さいから大丈夫。」ってなことを言われたことが2回ばかりあった。
あ~、そうなんだな。みんなぱっと見、何事もなく幸せな人生歩んできたように見えるけど、実際見えないところでいろんな苦労してんだな。って思った。

でも、ここの場合でも、「傷比べ」になっちゃった。そうなると私も「私だって見えないとこにも大きい傷あるし、私の場合、ここの傷は小さいけどすごく目立つんだよ。だから嫌なんだよ。」
って、言わなかったけど、もやっとして終わり。

でも逆に「そうか、この人はもっと大きい傷があるんだな。私のはまだましだな」って思うことで本当に私は楽になるんだろうか。
いや、たぶんならない。たとえなったとしてもそれは一時的なもので終わるだろう。またしばらくしたら同じことを同じように嘆いているんだじゃないかな。

 

誰かが嘆き悲しんでいるときに「私なんてもっとひどかった・・・あなたはまだまし」なんて言葉は慰めでも何でもなく、相手を更に苦しめかねない暴言になりえるかもしれないってことを心にとどめておきたい。

ただ、こんなケースもあった。
以前、病気でお父さんを亡くした友人と話をしたときに、私たちの父親の亡くなり方は全くもって異なるものだったけど、それでも、お互いが経験したであろう悲しみや苦しみを共有し、共感し合うことができた(と思う)。あの会話の中では「・・・のほうが」なんて言葉は出てこなかったし、何よりお互い一人っ子という環境だったので、高校生だった頃に「私たち兄弟いないし、何かあったら助け合おうな」なんて言い合ってたことが、まさにその通りになったひとときだった気がする。

私も苦しんだ。彼女も苦しんだ。
そして、親の死というもの、それがもたらした心の変化や生活の変化というものから、何かを見いだそうとした。
そこに、もしくはそれまでの過程に多くの共通項があったことが、私たちのそのときの会話が「不幸合戦」にならなかった一番の要因じゃないかと思う。

 

まぁ、同じような経験をした人同士のほうが確かにお互いの苦しみを「わかりあえる」可能性は高いのだろうけど、そういう会に出向かない限り、普段の生活の中ではそうそうそんな人には出会えないのが現実。

「悲しみ」の形や大きさ、深さというのは人によって様々だし、その「悲しみ」や「不幸な出来事」への耐性がどれくらいあるのかというのも人によって違う。でも確実に言えることは、ある一つの悲しみはその人だけのものであって、他の誰もそれを完全に理解することはできないんだろうということ。不幸合戦が不毛な結果に終わる一番大きな所以。

それでも、私たちは「共有」することで救われる。ただ、そこで「共有」されるものというのはクリック一つでシェアできるようなものではなく、一人で考え、苦しみ抜く過程から絞り出されたほんの少しのエッセンスだけなんだろう。

そういう意味ではうちの旦那なんて、親族みんな長生きだし、うちの家族とは本当にいろんな意味で対照的なことが多い。「あんたになんて当時の私の辛さがわかってたまるか」っていうのはそりゃ何度も思ったことあるけど、それこそ私が一人で不幸合戦繰り広げてるに過ぎない。
ただ、ありがたいなと思ったことは、旦那にはとても豊かな想像力があるということ。私を傷つけるようなことは(基本)言わないし、私が経験したであろう悲しみに寄り添おうとしてくれているのはすごくわかる。


まとまりのない文になっちゃったけど、これはこれで私には意味がある。
読み返せば読み返すほど、穴が見える文章。でも、書いて心の中を整理することに意味がある。


バカボンパパの言葉を借りれば、
「これでいいのだOK
って感じ。


長々読んでくれてありがとう。