最近、小学生の国語の試験問題を見せてもらって、不毛な問題だなって思うことがあったんだけど、よく考えたらこういうのって何十年も前から変わってないのかも。
高校生のときだか、国語の試験を返してもらったときに、「このときの筆者の心情としてふさわしいものを選べ」という設問を間違えたときのこと。
ちょっと納得がいかなかったので、国語の先生に質問してみた。
「このとき、筆者がどう感じたと思うかをどう考えるかは私の自由のはずなのに、なんでこんな問題があるんですか。答えは何で判断してるんですか。筆者に確認してるんですかね。」
というようなことを、(おそらくもっと拙い日本語で、弱々しく)聞いてみたことがある。
そのときの先生の答えがこちら。
先生:「う〜ん、そうねぇ。確かにそうだけど、でも、本文から読み取れる内容を常識的な考えに基づいて判断してるんじゃないかしら」
私:「・・・・・・・そうですか」
今ならもう少し上手に反論できそうな気もするけど、このときはこれが精一杯。そうか、そんなもんなのか、ってモヤモヤしたままそのときは終了。
数年後になって、遠藤周作のエッセイを読んでいたときのこと。遠藤周作の作品はよく国語の文章題に出題されるのだけど、彼自身がそれを読んだときに、「このときの筆者の心情を一つ選びなさい」とあったが、選択肢を見てみると答えが一つではなく複数あてはまるものがあった、と書いてあるのを発見した。
確かに、作品を正確に読み取るという力は必要だし、とんちんかんな解釈や曲解は筆者にとってもありがたいことではないとは思う。ただ、解釈のあり方として、いろんな考えがあったほうが確実におもしろい。言ってみれば、筆者ですら考えつかなかったような解釈の仕方だって出てくるかもしれない。ただ、この手の設問はそういう発想そのものを認めないところがすごく「国語の授業的」で息苦しいし、おもしろくない。
今なら、当時の先生にこう言ってみたい。
「ボルテールというフランスの思想家の言葉にこんなものがあります。"Common sense is not so common." (常識はそれほど常識ではない)。」
生意気なやつだと思われて終わりだろうけど。
そういうわけで、「このときの筆者の心情を選べ」的な設問が一日も早くこの国からなくなることを私は切に願っています。
そうすれば、国語の授業のときに、夜の足りない睡眠を補おうとする生徒が少しは減るんじゃないかと思います。