ほろほろ日記

こぼれ落ちる思い出を繋ぎ止めるメモ

私が一番最初に出会ったムスリムの女性について

妊娠中、ボランティアでバングラディシュ出身の女性の日本語学習を手伝っていたことがある。彼女のご主人もまたバングラディシュの方で、日本の大学の研究室で勉強されていた。そして4歳になるお子さんは日本の保育園に通っていた。彼女自身は英語が堪能だったので、日本の小学校で子供に英語を教える仕事をしていた。

 

毎週土曜日の朝、二時間ばかり彼女と日本語を勉強していたのだけど、日本語の教科書のほかに、お子さんが保育園からもらってくるお知らせなども時々持ってきては一緒に読んだりしていた。

 

ある日、保育園で行われたイベントについてのアンケート用紙に記入するのを手伝うことになった。アンケート用紙には、一般的な質問の最後に感想などを自由に記入できるコメント欄があった。

何を書きますか?って尋ねたら、

「イベントは本当にすばらしく、楽しかった。先生方は準備するのがとても大変だったのではないだろうか。とにかく、感謝をしていると伝えたい。」

との返答。

 

保育園で以前働いていた知り合い曰く、最近は何をするにしても保護者からの苦情やらえげつないコメントやらが多く寄せられるという。そんな中で、心からのねぎらいと感謝の言葉というのはきっと先生方にとっても励みになったんじゃないだろうか。彼女はいつだって、まわりへの感謝を忘れなかった。私に対してもそうだった。日本語を教えるという中で、そんな彼女から私のほうがいろんなことを教えてもらった気がする。

 

ある日、彼女が国でお子さんを出産したときの話になった。赤ん坊は未熟児だった。ちゃんと無事に育ってくれるか、何か深刻な障害が残りはしないか、彼女は不安で押しつぶされそうになった。そんな中、医師がこんな話をしたという。

 

「あなたの赤ちゃんは、あのニュートンと同じ体重だよ。ニュートンも未熟児として生まれたんだ。でも、彼は歴史に名を残す発見をして世の中に貢献した。あなたの赤ちゃんも大丈夫、きっと元気に立派に育つ。」

 

その後、彼女とご主人が赤ちゃんにつけた名前は「ソアド」。

「Good Luck」の意味だと教えてくれた。

そんなソアド君はその後すくすく育ち、短い日本滞在の間に誰よりも早く日本語を覚えていった。

 

私の出産予定日が近づき、最後の日本語学習となる日がやってきた。私の大きくなったお腹を見て、いつも体調を気遣ってくれた彼女がこんなことを聞いてきた。

 

「あなたの赤ちゃんが無事に生まれるよう、いつも祈っています。今日は最後に一緒に祈ってもいいですか。でも、あなたは一緒に祈る必要はないです。私が祈りたいだけだから。もしあなたの信仰している宗教があるなら、あなたの神に祈ったらいいの。」

 

誰かが自分のために祈りを捧げてくれるっていうのは、本当にありがたく、なんだかとても神聖な、それでいてとても温かい気持ちになったのを覚えてる。神社や寺で「合格祈願」やら「健康祈願」と称して自分のために願い事をするしかなかった私には、なんだか目から鱗が落ちるような気分だった。

 

この彼女の言葉の中に、この混沌とした世の中で最も必要とされているものを見た気がする。異なる宗教や価値観の中で平和な世界を築くためには、お互いが信じるものへの「尊重」が不可欠。そして、相手を思いやる心。

 

あまりにも恐ろしく悲しいニュースが流れるなかで、彼女の言葉が今も心に響く。

 

出産前に、彼女が自宅に招待してくれて、夫とともに伺った。彼女のご主人がせっせと料理を手伝いながら、いろんな種類のカレーをふるまってくれた。とてもおいしく、ぜひうちで再現したいからスパイスを教えてほしいと言ったら、彼女が持っていたものをわけてくれた。

それで、しばらくして夫が見よう見まねで作ったチキンカレーを食べたその翌日、長女が生まれた。

そんなわけで、子供が生まれる前の日に食べた晩ご飯のチキンカレーのことはきっと一生涯忘れないと思う。そしてチキンカレーを食べるたびに、彼女とご主人と息子君のことを思い出し、もう国に帰ってしまったけれど、いつの日か再会できたら素敵だな、なんて考えてます。