ほろほろ日記

こぼれ落ちる思い出を繋ぎ止めるメモ

山本太郎による石破演説の「引用」は、もはや「妄想」に近かったんじゃないかと思う件

 
名護市長選における山本太郎氏による稲嶺氏応援演説の文字起こし文を読んでいて思ったこと。
 
上記の記事内では、まず石破さんの演説が先に掲載してあったので、それを読んだ後に山本氏の演説を読むと、日本語の「引用」というものはもはやこういう選挙戦になると、「解釈」の域を超えてしまってむしろ「妄想」に近いものになってしまってるんじゃないかとすら思ったわけです。(こんなこと書いたら山本氏熱烈支持の方々に吊るし上げられるんじゃないかと内心びくびくしているチキンです。)
 
引用にはいわゆる「直接話法」と「間接話法」というものがあります。
簡単にいうと、直接話法は鍵括弧で相手の言葉をそのまま忠実に伝えることに重きがあるとすると、間接話法では話し手による何らかの解釈なりフィルターがかかってくることが多いです。
たとえば、”夫が私に「ちょっとふっくらした?」と聞きました。”
これは私によって友人に伝えられるとこうなる。 ”旦那に、太ったんじゃない?なんて言われたよ。” これを聞いたら夫はきっと「そんなことは言ってない」というだろうけどこれがまた「間接引用」というものの面白さだと思う。
 
そこで、山本太郎氏の演説を見てみよう。
 

昨日、自民党の石破さんが応援にいらっしゃいました。そこで言われたこと。名護に基金を作るよ。500億円ものお金を、名護に注ぎ込むよ。そのように言っています。

 

「そこで言われたこと」「そのように言っています」、とあることからも、わざわざこれは「引用」であると強調している。ここで石破さんの発話と比べてみよう。
 
石破氏による元発話:「国、県、市が協力し、新たに500億円の名護振興基金を作る、その実現をはかります。」
山本氏による引用:「名護に基金を作るよ。500億円ものお金を、名護に注ぎ込むよ」
 
これは確かに言ってる。ただこの場合、山本氏は終助詞の「よ」を使用し、石破さんの丁寧体の元発話を普通体にすることでいわゆる「敬体の格下げ」、言い換えれば石破さんの丁寧体を「ぞんざいな」口調レベルに落とすことを試みている。次に「500億円の名護振興基金を作る」が「500億円ものお金を、名護に注ぎ込む」に変更。「500億円もの」ということで金額の大きさを強調し、「注ぎ込む」という言葉の響きからは「基金を作る」という客観的な描写は消え失せ、「大金を流し込む」というイメージを与えた。
 
そして、私が驚いたのは次の発言。
 
考えてみてください。またしても国は、名護に対して、沖縄に対して、札束でほおを引っ叩こうとしているんです。お金を渡せば黙るだろって。
 
「札束でほおを引っ叩こうとしているんです。お金を出せば黙るだろって。」
ここで見落としてはならないのは、この言葉の最後にある「黙るだろって」の「って」の部分。そう、彼はここでも「引用」している(つもりな)のだ。しかしこの表現、今時どこぞのドラマでも札束で頬を引っ叩く場面なんてお目にかかれない。おそらくこの部分は、山本氏による「石破氏の思考(はこうにちがいない!)」の引用であろう。
ドラマであれば見たからに悪そうな人が善良そうな人に対して札束で頬をぺちぺちしながら「よぉ、悪い話じゃねぜはずだぜ、金とって口閉じるか、てめぇの頭でよく考えるんだな」と脅しているイメージだ。でもこの場合の「悪そうな人」は石破氏であって、頬をぺちぺちされてるのは名護市民の方という設定だろう。よく考えたらこれも失礼な言い方だ。石破氏にというよりは名護市民の方に対して。500億円の財源を活用して町を発展させることに希望を見いだす人もいるかもしれない。山本氏の言動にはこういう人々への蔑みが感じられるのは気のせいではない。いわゆる「移設賛成派」の人々のことを彼は「札束で頬を引っ叩かれて、金で黙らせられた人」というくくりでまとめ、石破氏を批判しているつもりの言動がこれらの市民を批判していることになっているのではないだろうか。自分の考えと異なる考えの人々をこういう言葉で表現するのは果たして彼が得意としている(と思われる)「現地の人々の声にならぬ声を拾って伝えようとする」というスタンスにそぐうのだろうか。
 
「とんでもない。カネで魂を売るかよ。カネでふるさとを売れるかよ。当然です。」
 
名護市では賛成派と反対派の割合が拮抗していることを全く考慮せずに、前者を「カネで魂を売る」人々と言い放っているに等しい気がするのです。
 
国はいいますよね。お前たちに何が分かるんだ。基地を作るか作らないか、基地をどこに作るかは、国が決めますからって。冗談じゃない。名護のことは、名護のみなさんが決める。当然ですよね。
 
国が本当にそんなことを言っているのなら、この基地移設問題はこんな何十年もかけて結論が出ないことはなかったんじゃないかな。この「国はいいますよね」の部分もおそらく「国の見るからに悪そうな政治家の思考」の引用だと思うのだけれど、これは発話元も示されていないし、誰のいつの発言を受けての「引用」なのかも不明。
 
そして更に演説はこう続く。
 
公約なんて、選挙の時だけでいいんだろって。
・・・途中省略・・・
公約なんて、ただの嘘なんですよ。公約を守る、そういう骨の入った政治家は、国会の中にはなかなかいない。

 

これは、口が裂けても国会議員は言わないだろう。
それに、これは逆で、ほとんどの国会議員にとって「公約を守る」というのは至上命令であり、最も大事にしたい部分であろうと信じている。それでももし彼らが公約を変更せざるを得ない状況になったときは、その理由を有権者が納得できる形で説明する義務を果たすことができるなら(これを十分にしないパターンが問題になるのは当然だけど)、それはそれで結構じゃないかと思う。
じゃぁ、この山本氏の言葉は一体何なのか。
そう、これはもはや「引用」の域を出てしまっていて、どちらかというと「妄想」なんじゃないだろうか。 
 
「沖縄の外からやってきて、わかったことを言うな」
ごもっともです。そうです。この選挙は、名護のみなさんが決めるチャンスなんです。
 

 

これは、沖縄のみなさん、おそらくみなさんは僕にこうおっしゃるでしょう、と。それに続く山本氏の返答に私は目を疑った。

「ごもっともです。そうです。」??????
認めるのか・・・じゃぁ何のためにそこに行った?なんて思うのは私だけなんでしょうか。
 
そしてこの山本氏に対する反論と思われる石破氏のブログがまた興味深かった。
「本土から来る人はカネの話ばかりしている、とのご批判もありますが、私たちはカネで人の心が買えるなどと全く思っておりません。」
これはおそらく山本氏の「カネを渡せば黙るだろうって」の部分に対するコメント。石破氏は演説では「カネ」という表現は一切使用しておらず、「財源」という言葉を使用しているにも関わらず、ここであえて、しかもカタカナで「カネ」と表現する意図は、名前こそ出さないけれど山本氏の発言に対する反論であることは明らか。 
 
抑止力の意味も理解せず、普天間の危険性除去の方途にも言及せず、ただ「駄目なものは駄目!」と主張している方々を見ていると、何とも言い難い気持ちにさせられます。
 
石破氏によると山本氏の一連の発言は「駄目なものは駄目!」という一言で「まとめ」られてしまったわけだけど、これはある意味とても的を得た「引用、解釈」ではないかと思う。
 
 
私は別に石破氏を特に支持しているわけではないけれど、彼の文章はすごく「うまいな」と思うことが多い。(石破氏は話し言葉と書き言葉にあるギャップが非常に少なく淡々と話すので、それがうちの親戚などに言わせれば「気持ちわりい」なんて表現されることもあるけれど。)
 
名護市長選挙も、東京都知事選挙も、あらゆるご批判は選挙の責任者である私が負うべきものです。民主政治が多くの人の利害や意見を調整する営みである以上、「ベスト」でなければ「ベター」を追求する他はありません。
 すべての人が納得する「ベスト」などは存在しませんし、政治家は思想家でも哲学家でもないのであって、これが務めなのだと思っております。
 
こういうのを読んだあとにもう一度山本氏の演説を読み返してみると、そこに明らかな「差」を感じ得ずにはいられなかった。
私としては「応援演説」の質および内容としては石破氏の勝利だったと思うけれど、選挙の結果としては「妄想」を盛り込んだ引用を多用し、「感情」にのみ訴えた稲森陣営の山本氏の勝利だった。石破氏が現実路線で打開策を示したことは政治家としてはある意味「誠実」なやり方だったと思う。ただ彼らが失敗したことは、そのことによって必然的に生じてしまう「カネですべて解決しようとしている」というイメージを払拭できなかったことだろう。
 
今回の選挙戦に限らず、政治家たちの演説には様々なフィルターのかかった「引用」が多用されている。ただ、その引用、本当に「引用」なのか、それとも限りなく「妄想」に近いのか、「本当にそんなこと言ってるの?」と疑ってかかる意識は持ち合わせていたいと思う。
もちろん政治家たちも有権者に対して言葉を尽くして説明し、効果的に訴える必要がある。普段の会話の中でも「相手の真意は何なのか」を考える前に私たちは「思い込み」によってそれを曲解することは多々あり、それが多くの問題を引き起こしているのだから。
 
「政治は言葉」
 
政治においても日常生活においても、「コトバ」の力は偉大だ。
有権者に向けて発信する側も受け止める側もよくよく考えなければならない。